鎌倉時代で中学のテストによく出るポイントをまとめてほしい!
鎌倉時代の出来事・年号をなかなか覚えれられない・・・
サクッと覚えやすい語呂合わせを知りたい!
今回の記事は、こういった要望に答えます。
この記事を読めば、
- 鎌倉時代でおさえるべきポイント3つ
- 鎌倉時代の重要な出来事・年号+語呂合わせ
- 鎌倉時代の文化のポイント
がスッキリ分かります。
なお、鎌倉時代の前の「平安時代」はこちら。
平安時代で中学のテストによく出るポイントをまとめてほしい! 平安時代の出来事・年号をなかなか覚えれられない・・・ サクッと覚えやすい語呂合わせを知りたい! 今回の記事は、こういった要望に答えます。 こ[…]
鎌倉時代のポイント3つ!
鎌倉時代 [1185〜1333年] のポイントは3つに分けられます。
- 源頼朝の政治
- 鎌倉文化・鎌倉仏教
- 北条氏の執権政治
それでは、鎌倉時代の流れを見ていきましょう。
鎌倉時代① 源頼朝の政治
※ 写真:『平家物語絵巻』より
平安時代の後期、栄華を極めていた平氏を滅ぼしたのが 源頼朝 でした。
1185年 壇ノ浦の戦い → 平氏が滅亡
→ 源頼朝が守護・地頭を設置
【覚え方】いい箱 作ろう 鎌倉幕府
源頼朝は、弟の 源義経(もとは牛若丸)の協力のもと、壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏を滅ぼします。
頼朝は国ごとに 守護 、荘園・公領ごとに 地頭 を設置して、全国を実質的に支配しました。
これにより、鎌倉時代 [1185〜1333年] がスタートしました。
1192年には、源頼朝が 征夷大将軍 になって 鎌倉幕府 を完成させました。
鎌倉幕府の仕組みは、何といっても「将軍と 御家人(武士)の主従関係」である 封建制度 がポイント。
御家人は、将軍の命令に従って京都や鎌倉の警護をしたり、命をかけて戦に出向いたりしました(奉公)。
将軍は、そういった御家人のはたらきに応じて領地やほうびを与えました(御恩)。
この御恩と奉公の封建制度によって、鎌倉幕府の基盤が築かれました。
鎌倉時代② 鎌倉文化・鎌倉仏教
※ 写真:東大寺南大門
鎌倉文化
鎌倉文化 の特徴は「武士らしい力強い文化」です。
代表的な建築・彫刻として、
- 東大寺南大門
- 金剛力士像(運慶・快慶ら作)
を覚えておきましょう。
鎌倉文化の文学としては、
- 琵琶法師『平家物語』(軍記物)
- 鴨長明『方丈記』(随筆)
- 吉田兼好(兼好法師)『徒然草』(随筆)
- 藤原定家らが編さん『新古今和歌集』(歌集)
がテストによく出ます。
鎌倉仏教
鎌倉時代には、極楽浄土への生まれ変わりを願う新仏教が民衆に広がりました。
【鎌倉仏教】
✔︎ 念仏
- 法然(ほうねん):浄土宗 → 念仏「南無阿弥陀仏」
- 親鸞(しんらん):浄土真宗 → 悪人正機説(罪を犯した悪人こそが救われる)
- 一遍(いっぺん):時宗 → 踊念仏(盆踊りのもと)
✔︎ 題目
- 日蓮(にちれん):日蓮宗(法華宗) → 題目「南無妙法蓮華経」
✔︎ 禅宗
- 栄西(えいさい):臨済宗 → 座禅・問答によって悟りを開く
- 道元(どうげん):曹洞宗 → ひたすら座禅をする
鎌倉仏教は、学校の定期テスト・入試問題のどちらでもよく出ます。
太字のワードはしっかり漢字で書けるようにしておきましょう。
鎌倉時代③ 北条氏の執権政治
※ 写真:北条時政(Wikipediaより)
頼朝の死後、北条氏 が 執権政治 を行なっていました。
※ 執権(しっけん):将軍の補佐役
承久の乱
北条氏の執権政治をよく思わなかった 後鳥羽上皇 が、北条氏を討伐する命令を武士たちに出したものの、
頼朝の妻である 北条政子 が武士たちを団結させて、逆に上皇側を倒しました。
これを 承久の乱(じょうきゅうのらん)と言います。
1221年 承久の乱
【覚え方】いつ不意をつこうか 承久の乱
この乱の後、北条氏は後鳥羽上皇を隠岐(島根県)に流し、「朝廷を監視するため」に京都に 六波羅探題(ろくはらたんだい)を置きました。
御成敗式目
北条政子の死後、3代執権になった 北条泰時(ほうじょうやすとき)は有力御家人から 評定衆(ひょうじょうしゅう)を選び、そのメンバーで会議を行い決定していくことにしました。
そして、頼朝以来の武家社会のしきたりをもとに「御家人に対する裁判の基準を明らかにする」という目的で 御成敗式目(ごせいばいしきもく)を定めました。
1232年 御成敗式目(貞永式目)
【覚え方】裁判を いつ見に行こう 御成敗式目
御成敗式目は、この後も長いこと武家社会の手本とされました。
武士と民衆の生活
※ 写真:流鏑馬(やぶさめ)の様子
鎌倉時代の武士は、一族の長である 惣領 を中心にまとめられており、地頭や荘園領主となり農民に農業をさせたりして、そこから年貢を取り立てていました。
また、普段から自分の屋敷で武具の手入れをしたり、弓馬の訓練を欠かさず「弓馬の道」「武士(もののふ)の道」と呼ばれました。
一方、鎌倉時代の民衆の変化としては、西日本では「米を収穫したあとに麦を作る」という 二毛作(にもうさく)が広まりました。
また、寺社の門前などで 定期市 が開かれるようになり、米や魚、布などが 宋銭 を使って取引されていました。
※ 宋銭は、平清盛が始めた 日宋貿易 で輸入された
元寇
※ 写真:チンギス・ハン
この頃、中国ではモンゴル帝国の チンギス・ハン が宋を滅ぼし、
その孫の フビライ・ハン は 元(首都:大都)を建国しました(1271年)。
北条時宗 が執権だったとき、フビライ・ハンは日本までも支配しようと、元と高麗の連合軍で攻めてきました(元寇)。
1274年 文永の役
【覚え方】ひどい元軍 人になし
1281年 弘安の役
【覚え方】元軍 いつ敗走(はいそう)するのか
のちに「神風」と呼ばれる台風の到来も重なり、元軍は敗走し、鎌倉幕府はこれに勝利しました。
しかし、新たに土地を得たわけでもないため、御家人への恩賞を十分に与えることもできず、御家人たちは幕府への不満を募らせていきました。
そこで、北条氏は御家人の借金を帳消しにする 徳政令(とくせいれい)を出します。
1297年 永仁の徳政令
【覚え方】皮肉(ひにく)な 永仁の徳政令
「御家人が他人に売った土地は、タダで御家人に返す」という徳政令によって、御家人は誰からもお金を借りられなくなり、かえって生活が苦しくなったという皮肉な結果に終わりました。
鎌倉幕府が衰退していく中、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は幕府を倒そうと計画したが失敗し、承久の乱と同じく、隠岐(島根県)に流されてしまいました。
しかしその後、武士の 楠木正成(くすのきまさしげ)、新田義貞(にったよしさだ)、足利尊氏(あしかがたかうじ)らが後醍醐天皇の味方となって鎌倉幕府を攻めました。
1333年 鎌倉幕府が滅亡
【覚え方】とどめを いざささん
こうして鎌倉幕府は滅び、次の 室町時代 [1338〜1573年] へ突入していきます。
鎌倉時代のまとめ
最後に、鎌倉時代 [1185〜1333年] のポイントをまとめておきましょう。
- 源頼朝の政治:御恩・奉公の封建制度
- 鎌倉文化・鎌倉仏教
- 北条氏の執権政治:承久の乱、御成敗式目、元寇、永仁の徳政令 → 滅亡
鎌倉幕府を滅ぼした 足利尊氏 が、京都に室町幕府を開いて 室町時代 [1338〜1573年] が始まります。
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